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元漫才作家Y氏の記事

年取ってどうせ入るならこんな楽しみのある老人介護施設に入りたいもの。

原発・国民投票の賛同人Y氏はいつも玄人っぽい文章を書かれるので検索したらわかっちゃうものです。Y氏は現在神戸新聞で毎月第2、4水曜日に『ささえびと─笑顔を引き出す介護力─』を連載中とのこと。
播磨の人は読めるからええなぁ。うちら読まれへん。
元漫才作家がなぜ老人介護の道を選ばれたのか、こっそり調べてみました。

神戸新聞
http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/kurashi/200901egao/01.shtml
連載・特集くらしあの笑顔を求めて 元漫才作家の震災14年(上)避難所で

あの笑顔を求めて 元漫才作家の震災14年

(上)避難所でひげ面が、ほころんだ(2009/01/16)

元漫才作家の山口浩司さん(右:写真省略) ケアの質の向上に知恵を絞る毎日だ=西脇市、楽寿園

 暖房の効いたフロアには氷川きよしの「きよしのズンドコ節」が流れていた。西脇市の特別養護老人ホーム「楽寿園」。新年最初のふれあい喫茶のメニューはお汁粉。入居者が育てたサツマイモ入りだ。

 皆が笑顔で箸(はし)を進める。「ごちそうさん」。上機嫌で歩行器を押す後ろ姿に、生活相談員の山口浩司さん(38)=多可町=はささやかだが確かな手応えを感じていた。

 三十二歳でこの業界に飛び込むまで、山口さんがいちずに打ち込んだのは「お笑い」だった。

 同級生との漫才コンビで先生も爆笑させた高校の文化祭。サラリーマンを経て一九九一年、二十一歳で大阪へ。芸人ではなく漫才作家を目指し専門学校に通い、「漫画トリオ」で一世を風靡(ふうび)した青芝フックさん主宰の若手芸人の勉強会で腕を磨いた。「おもろい話を作ったる」と走り続けた。



 「被災地で公演ができないか」

 一九九五年一月末、大阪・梅田。勉強会の事務局でアルバイトをしていた山口さんはフックさんから提案された。新聞やテレビは連日、阪神・淡路大震災の被災地の様子を伝えていた。

 「どないしょうか」

 神戸や西宮の避難所を訪ね歩いた。学校の廊下に敷かれた布団、段ボールでの仕切り、そして生気を失ったお年寄り。西宮市内の小学校と交渉して、内諾を得た。「傷つく人もいるかもしれない」。避難所の自治会長の言葉が心にひっかかった。「責任は取ったる」とフックさんが話をまとめた。

 二月半ば。再訪した体育館は前よりも沈んでいた。出口の見えない生活に疲れ、頭まで布団をかぶった人もいた。「こんな場所で漫才なんて」。山口さんは逃げ出したくなった。

 フックさんはプロだった。子どもをステージに上げ、クイズで場の空気を和ませる。子どもが笑うと、客席の親の表情も緩む。つられて周囲も。布団から五十歳前後の男性が顔を出し、ひげ面をほころばせていた。

 若手漫才師も持ちネタを懸命に演じた。笑い声が体育館を包む。山口さんも舞台脇で一緒に腹を抱えた。熱いものがほおを伝っていた。

 二カ月後、公演を見ていた男性から礼状が届いた。

 〈絶望で生きていく自信もなかったが、あの公演で子どもの笑顔を見て、もう一度、昔のように一家団らんで笑いたいと思えるようになりました〉

 公演翌日から職を探し、無事仕事も住まいも見つけたことを、手紙は伝えていた。

 「こういう仕事ってええなあ」。何度も手紙を読み返した。



 公演翌日から、山口さんは普段の生活に戻った。フリーの立場で仕事を懸命にこなした。二十代後半、夢路いとし・喜味こいし、ちゃらんぽらんらの漫才台本を手掛けた。情報番組や演芸の特番の構成などの仕事も入り始めた。

 漫才作家としてある程度名前が売れたが、何か満たされない。あの感動を超えるものがない。気が付くと、避難所の慰問公演のことばかり考えていた。

 「目の前の客にこだわりたい」と、舞台での過激な笑いを追求した時期もあったが、悩みはいっそう深まった。

 テレビの仕事を断った駆け出し作家に、活躍の場はおのずと限られる。「自分だけにできる表現って何だろう」。仲間と酒を飲んではくだをまく。そんな時期が四、五年続いただろうか。

 長いトンネルを抜け出すきっかけは、偶然見たテレビ番組だった。



 華やかな演芸の世界から、高齢者介護の現場へ。震災で生き方を変えた元漫才作家の十四年間をたどる。

(溝田幸弘)

(2009/01/16)

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HOME連載・特集くらしあの笑顔を求めて 元漫才作家の震災14年(中)介護職場に転身
あの笑顔を求めて 元漫才作家の震災14年

(中)介護職場に転身お年寄りの生きる力に
職員と一緒に絵馬づくり。「今年のお願い事は何?」=西脇市、楽寿園

 二〇〇二年、漫才作家として山口浩司さん(38)は行き詰まっていた。

  阪神・淡路大震災間もない一九九五年一月末、西宮市内の小学校を笑いで包んだ感動を、テレビや舞台で再現できない。「どうすれば人の心を動かす表現ができるのか」。ゲームのシナリオ制作も試みたが、答えは出なかった。

  六月下旬、何げなくつけたテレビのドキュメンタリー番組は、福岡県のある病院の取り組みを伝えていた。お年寄りの願いをかなえ、生きる力を取り戻そうとする試み。寝たきりだった男性が数カ月のリハビリに耐え、阿蘇山で写真を撮影していた。その笑顔が避難所の人たちのそれと重なった。

  「こんな笑顔を引き出す仕事がしたい」

  翌日、兵庫県内の介護施設に電話をかけまくった。ある特別養護老人ホームがパートを募集していた。親しい知人にだけ伝えた転身。二〇〇二年七月だった。



  トイレや入浴、食事の介助。初めて知る介護の現場。時間は瞬く間に過ぎた。

  半年がたち、周囲が見え始めたある日、手品を披露した。ハンカチを消す簡単なネタだったが、食堂は結構わいた。

  翌日の夜勤、女性のおむつの交換中、突然話しかけられた。普段は簡単なあいさつを交わす程度。「あんたの手品、面白かったなあ。もっとしてほしいわ」

  思いがけずお笑いのネタが役立ったことがあった。寝たきりの男性におむつを交換しながら、ふと「ダイマル・ラケットって知ってます?」と聞いてみた。いつもは「うん」「はあ」だけの男性が、「あわび!」と即座に答えた。このぼけは、爆笑王の異名をとった中田ダイマル・ラケットの十八番(おはこ)。驚いて詳しく聞くと、お笑いが好きで若いころは寄席に通い詰めたという。

  「漫才を見せたら、喜んでもらえるかも」。以前、台本を書いたこともある夢路いとし・喜味こいしのビデオ上映会を開いた。あの寝たきりの男性は最前列で、ほかの入居者が笑い転げる中、ずっと下を向いていた。心配した山口さんが終了後に「しんどかったでしょう」と気遣うと、絞り出すような声で「いとこいはやっぱりうまいなあ」。じっくり聞き入っていたのだ。

  山口さんは男性の枕元にラジカセを置き、落語を流してみた。やがてベッドから笑い声が聞こえるようになった。

  「こちらから働きかければ笑ってくれる」。手応えを感じた山口さんは、職員やボランティアと「お笑い倶楽部」をつくった。



  旗揚げ公演は〇三年九月。アコーディオンを使った音曲漫才に一人芝居、日本舞踊などを披露した。

  翌月開いたメンバーの会合で、「うまくできなかった」「よそでは受けたネタが受けなかった」と反省の声が上がると、九十七歳の入居者が「みなさんにはずっと素人でいてほしい」と首を振った。

  「うまい芸を見せられて終わりではなく、失敗したのを『あんた、下手やったなあ』と、後で一緒に笑いたい」

  ハッとした山口さんは、公演後に出演者が入居者と談笑する時間を設けた。「上手やったね」「面白かったよ」。舞台衣装の出演者とお茶を囲み、お年寄りが和やかに話しかける。その光景を見ながら、「日常生活の中での笑い」を提供したいという思いが強くなっていった。

  〇四年から勤める西脇市の「楽寿園」で、山口さんの取り組みが始まる。

(溝田幸弘)

(2009/01/17)


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(中)介護職場に転身お年寄りの生きる力に(2009/01/17)
(上)避難所でひげ面が、ほころんだ(2009/01/16)

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