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能天気な私がヒロシマへ行ったわけ-5/21反戦老人クラブ

原発と言おうが原子力と言おうが、核であり原爆なのは明白なのだけれど、「今年の8.6は広島へ行こう!」と、いつ思いついたのかしら?
ぺんぎんさんとお知り合いになる以前に、脳裏にヒロシマがちらついていたわけで、7/16に魔よけ傘(放射能よけ)を小出さんに完成していただくより前に「草津反戦老人クラブ」の頃、5月21日の土曜日だったと思う。

実は老人会というものにあこがれていて(笑)定年退職したら老人会で囲碁でもしたいなーっと思っていたら”反戦”老人会。
反原発から直に反戦に持っていくあたり、なんて素直なんだろう、きっと昔は反核運動でならした先輩たちなのだろうなぁと期待して行ってみたら、けっこう若い方もおられました。

米澤鐵志さんと仰る方の発表をお聴きしていたら、彼が今こうして生きておられることは奇跡に近い、いろんな偶然のおかげとしか思えないもので、福島の原発震災とオーバーラップしながら聴いていました。

市外にお住みだった彼(小学生)とお母様が1945/8/6に広島市内へバスで向かわれ、とても混んでいてバス中央部におられたこと。
原爆投下の時にその鋼鉄製の頑丈なバスがたまたま百貨店(だったっけ?)の建物のかげにさしかかり、とにかくお母様と彼は生きておられたこと。
川辺は人がいっぱいで水も飲めず(それがよかった)道端でへばっていたところをトラックで市外に出ようとしていた軍人さんに拾われて無理やりトラックに乗せられ(そう!なるべく離れること)トラックを降りた親子が雨をよけるために大きな楠木の下に居てたら、楠の葉っぱからもれる雨が黒いのに気づかれた(黒い雨)お母さまが、着てるものを頭からかぶるようにして難を逃れ、市外のご自宅に戻ることができ、彼もお母さまも嘔吐下痢が続き髪が抜けおち、命が危険な状態になってそれでも彼は生き延びたけれども、残念なことにお母様と乳幼児の妹さんが亡くなられたとのこと。妹さんは広島市内から戻ってこられたお母さまのおっぱいを飲んだ内部被曝によるもの。その後の彼は語り部として活動されており、運動もされお元気そう、近頃白内障の気が出てきて、それは原爆の後遺症によるものらしいとのことで運動は控えるようになさったとのこと。

よくも私は覚書ひとつメモひとつ見ず覚えているもんです。それだけ初めて聴く原爆体験は強烈な色彩を放っているから。

御幸橋
(これは小出さんのプレゼンで登場する原爆直後(3時間後)の御幸橋の写真)

もう一人の講演者は小出さんのレジュメの抜粋で、同じ資料を使いながら「なんて小出さんは分かりやすく語られるのだろう」と思った覚えがあります。
確か、同じ机の殿方が「人・シーベルト」の考え方が素人には分からないはずだから説明せよと仰ってましたっけ。

というわけで、今年は広島へ行ったわけです。


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